今日は樽足るを知るということについて。
この言葉、元々は仏教の教えからきている言葉だそうだ。
そう言われると、不思議と自然に受け入れられるのだが、以前、前職の時の事であるが、社員総会の際に社長講話にて「足るを知れ」的なことを言われ、「あなたは足りてるから言えるのであって、俺は全然足りてない」と不快感をあらわにした記憶がよみがえってきた。
それはさておき、人は物事を評価する際、何を基準にしているだろうか?
以前に書いた「評価 」にも少々関連性のあることである。
僕は、会社での評価・昇級査定とは、<b>本人で掲げコミットした</b>会社のビジョンに則した行動目標に対する達成度合いに対して行うべきものだと思っている。いわゆる絶対評価だ。
でも、評価面談の際には「○○さんより私の方ができると思う」等の言葉が発せられることがある。
これは○○さんに対する相対評価であり、自身の目標行動や自身に対する絶対評価ではない。
従業員のみにいえる事ではなく、社長も同じだ。
自社を評価する際、○○社と比べてどうだったとかいう様な評価はありえない。前期やそれ以前、あるいは期初にたてた計画・目標に対してどうだったかだ。
では何故、人は相対評価に流されてしまうのか。
それは人の欲求が物質的なものに他ならないからではないかと思う。
相対評価を続ける限り、また物質的欲求を持ち続ける限り、その恐らくその欲求は満たされる事がない。満たされた(と思っている)としても、それはあくまで一時的なものであって、またすぐに新たな欲求が出てくる。
車を買った時の事を考えてみよう。せっかく欲しくて欲しくてたまらなかった新車を手に入れても、信号待ちで真横に止まった車がフェラーリだったらどうなるか?まぁ、フェラーリの場合、一般庶民がおいそれと手が出せる様なものではないが、それがベンツだったとしたら。また、それが中途半端に手が届きそうなものであればあるほど、今現在の満足感、幸福感は消え去り、また新たな欲求が駆り立てられる。
人はいつまでこの様な事を続けていくのだろうか?
斯く言う僕も今現在物質的欲求を追い求めて(しまって)いる。
まぁ、僕も(一応)人間な訳であって仏様ではないので、今から突然、物質的欲求をぬぐい去ることができるのか?と言えばできないと思うけれど、今後も長い人生を送っていく上で、時に、この「足るを知る」という言葉を思い出し、自分を見つめてみようと思う。

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